セブ島でスキューバダイビングショップの店長だったわたし。その時は、のちに日本に帰国することになるとは思いませんでした。さらにキャリア転換をして、英語通訳になるなんて夢にも思っていませんでした。きっかけは、アブサヤフのシパダン島襲撃、観光客誘拐事件。直接原因ではなく、遠因でしたが、あの事件がなければ帰国を決めなかったと思います。同じころに母が痴呆症を発症し、親戚に説き伏せられて介護のため帰国を決めました。予想外のキャリア転換の中で見つけた「第二の人生」での働き方と、その魅力をお伝えします。
若い時の自分に、「あなたは将来、日本語と英語の通訳をしている」と言ったら、きっと笑い飛ばしたことでしょう。
当時、わたしはフィリピン・マクタン島でスキューバダイビングの店長さんでインストラクターでした。太陽の下でトレーニングや講習をしたり、水中世界に案内し、サンゴ礁に棲む色とりどりの魚、恥ずかしがり屋のチンアナゴを指さしながら、日々、人間はなぜ肺呼吸なのかと、進化の過程でなぜエラ呼吸をやめてしまったのかと疑問を抱き続けていました。髪も肌も潮焼け、靴など何年も履いていなかったし、オフィス勤めやヘッドセットをつけて会議に参加するようになるとは、まったく想像していませんでした。
でも、人の人生はある日突然変わる。
フィリピンのイスラム主義組織アブサヤフがシパダン島を襲撃し、ダイビングの観光客20人以上を誘拐しフィリピンのホロ島に戻ってきたのでした。フィリピンの観光業は大打撃を受けました。一人、また一人と友人は家族を頼ってフィリピンを離れ、スウェーデンや、ドイツなど各々の母国に帰っていきました。お店や会社も資金繰りに困るところが増えてきました。当然、わたしにも同じ影響が出てきました。
同じころ国際電話で母との会話が成り立たなくなりました。親戚によると「あなたのお母さん、なんか最近変」で、どうやら認知症を発症し、普通に生活できなくなっていたのでした。
そして労働ビザの更新はやめて、介護のために日本へ帰国することになったのでした。
帰国を決めてからビザの都合で帰国するまでの1週間はやることが山積み、フィリピン出国の日は不眠不休で空港に行きました。帰れば家族がいるのだから何とかなるだろうと思いましたが、母の痴ほうは思ったよりずっと悪かったのでした。同居を続けたらわたしは母親を殺してしまう、と思い、慌ててアパートを見つけて引っ越しました。最初の数か月はとにかく新しい生活に慣れるのに必死で、余裕なんてありませんでした。
あの時のわたしが考えていたことはただ一つで、一日も早く仕事に就かないといけないという思いでした。自分はフィリピンから戻ったばかりでしたから、「英語を話せる」、「国際的なビジネス環境で働いた経験がある」、この2つで役に立てる仕事に就こうと思いました。この組み合わせは、当時なかなか珍しいものでした。とてもラッキーなことに、派遣社員として外資系の銀行のお仕事が長期でできることになりました。その後のわたしのキャリアとしてはその会社が基調となりました。はじめはIT翻訳の仕事、やがて通訳や、取締役秘書をするようになりました。プロの通訳者としての下積みがはじまり、今では「いぶし銀」通訳です。
通訳の仕事は、発言を正確にインターナショナルなセンスに置き換えること、これに尽きます。場の空気を読み、言外のニュアンスがあることを理解し、できるときは汲み取ること、自分にはわからないこともあると謙虚に知ること、そして参加者全員が本当にコラボできる場づくりをすること。これはまるでダイビングでお客様を案内するのと同じで、未知の環境で人をお迎えし、落ち着いて自分らしくいてもらう、その場にいる権利を正しく使うこと、わたし達それぞれの存在が重要であることを伝える作業でした。
ダイビングインストラクター以外の何者かになりたかったわけではありませんでした。ただ、人生はある日突然変わる。人として、できることを誠実に選んで来たら、こうして新しい機会が来て、通訳となる日が来たのです。そしてGenAIを担当する日も来ました。
今、通訳の世界も「わたしの海」と思っています。景色は違っても、必要なスキルは同じ──忍耐、観察、そして人とのつながり。
一番美しい瞬間は、言葉と言葉のあいだにあるのかもしれません。