だから、寿命が来るまでは死なない。
今日も「一日一語 斎藤一人三六六のメッセージ」にインスピレーションを得ています。
一人さんは、寿命が来るまで死なないと知ると、一日一日が大事なことが分かってくると書いています。
わたしの母は58歳でマイルドな脳梗塞となり、その後若年性痴ほう症の症状が出始めました。わたしは当時フィリピンに住んでいましたが、親戚から「あなたのお母さん、様子が変よ」と言われることが増え、そのおよそ1年後、帰国して様子をみることにしました。
母は68歳で亡くなりました。わたしは、主治医の先生に恵まれました。「あなたはお母さんとゆっくりさようならをしているんですよ」と言われました。「長く海外に住んでいたのであれば、お母さんのことで知らないこともたくさんあるのでしょう。この時間を大切にしてください」
その言葉は心に引っ掛かりましたが、介護の間は必死でよくわかりませんでした。ただ、「この期間は神様がくれた時間なのだ」とだけ思いました。
30代だったので周りで介護している人はあまりいませんでした。自分は不幸だと思っていましたが、最近はさすがに、周りにも介護をしている人が増え、自分は早く終わってラッキーだったと思っています。
また、自分の時には見えなかったことが見えます。
一般的に介護は、家族の中でも自分がしなきゃと思う人が、時間や金銭的に割ける程度でしているようです。だから、介護される人と介護する人がゆっくりさようならをしているとは、このことだなと思えます。
さて、わたしは病気がちだったり、車で林道を走るのが好きだったり、スキューバダイビングを仕事としていたり、90年代のにフィリピンに住んでいましたので、危ないケガ病気もしました。しかし、自分は死ななかったんですね。
母が息を引き取った時、母が残りの寿命をもらったような気がしました。だから、いまわたしは自分の寿命ではなく、母がくれた残りの日々を生きているような気がしています。そのことを思い出すと、不思議に透明な気持ちになります。自分が透明になったような気持ちとでも言いますか。
上手に生きたいものです。