インダイおばあちゃんの戦争

Reach Gloria Estephan

1994年だったか、95年だったか。日系のダイブショップからコンティキダイバーズに入社した後、わたしの行動領域は当然ながら一気に変わりました。

それまでフィリピンの生活は、発展途上国でお湯が出ないし、たかってくる人やら、色目を使う人が湧いてくるので辛いと思ってたのでした。あれ~、全然辛くないよ。

また社会のルールで行動していたと思っていたことはそうではなかった。世の中、自己責任で回っていました。だから、外に買い物や、食事に行ったり、外の誰と話してもよかったのです。そして、そうそう変な人はいませんでした。

日系ダイブショップの人達が、何を心配して、そのおかげで自分は何を怖がっていたのやら、今となっては謎です。一つ確かなことは、当時のわたし達、全員貧乏波動を出していたってことですね~。

ある日、買い物行ってくると言ったら、フィリピン人スタッフから「行けば~」と言われて、日本のしぐさで「シッシ」をされたので、INDAYというサリサリストアに行きました。そこでは日用雑貨を買ったり、今でいうイートイン、食事をすることができました。海のそばなので、潮風が吹いて気持ちのいいところでした(今は、もうないです。今はビーチパークになっているようです)。

大柄なおばあさんがいて、立派な英語で、話しかけてくれました。その人がインダイという名前でした。インダイは近所では有名は立派な人格者でした。

神様を信じるかと聞かれて、実は信じないのよと返事をしたら、わたしを悪魔を見たような表情で見ました。その表情に打たれて、その後神様と信仰について深く考えることになりました。

日本人かと聞かれたので、そうだと言ったら、戦争中、日本兵にレイプされるのではないかと怖かったという話をしてくれました。日本兵が、マクタン島や、ヒルトゥガン島やらに、たくさんいたんだそうです。村の娘が怖がったぐらいですから、レイプの事件は実際にもあったのかもしれません。

わたしが20代のころのフィリピンでは日本人と聞くと戦争の傷を語り始めるおじいさんやおばあさんがまだ存命でした。一渡り話した後で、でも実際に悪事をしたのは、日本軍に従軍していた韓国兵だったという話してくれました。一方で韓国兵は日本人に比べて待遇が悪くて、そうなったのだという人もいました。

日本では誰も語らない戦争や捕鯨の話を聞くことになって、海外に出ることによる民間外交の責任も感じました。

戦争責任的な物事は、国家間のODAの一部としてもその時以前からずっと続いています。

わたし達の人生、決して行き当たりばったりではないのですね。

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