思い出は自分が書き換える

Date

わたしもまた、これまでの人生で「自分はこれで生きていく」と思っていた職業を、あきらめたことがあります。

2001年、アブサヤフがマレーシアのリゾートシパタン島で観光客を誘拐し、フィリピンのスル海にあるジョロ島に人質として生かしていたことがありました。フィリピンの観光業は大打撃を受け、わたしも含め、観光業につく外国人は貯蓄を食いつぶすことを余儀なくされました。

一人食べられなくなり、二人食べられなくなり、周りから友達が祖国への帰国を選んで去っていきました。わたしも、お店を助けるつもりで、数か月帰国することにしたら、実家で母が若年性認知症を発症していて、介護が必要な状態にあり、身寄りがない扱いになっていたことがわかりました。その時、「だめだ、もうこれまでだ。終わった」と思いました。

実際は、それ以前も、一生自分はフィリピンのダイビングインストラクターでいいのかと自問自答を続けていました。2000年にガイド中に頬骨を骨折しました。結婚したい年頃でもありました。そもそもが、自分の就労ビザの更新も決心がつかなかったのでした。香港の中国返還で、香港に見切りをつけてそれぞれ本国に帰る友達やお客様がいた時期でした。

今日の、このブログを書く直前まで、わたしは「母の介護のために、フィリピンのスキューバダイビング人生をあきらめた」と記憶していました。

突然思いつきましたが、これは書き換えられますね。今日から記憶を「母の介護のために、フィリピンの先行き不透明な人生を止めることができた」と書き換えることにします。

時がもし戻せたら、母の介護中から、「この人のおかげで先行き不透明な人生にけりをつけられた」と思えていたら、その後のわたしの人生、違ったものになっていたと思います。

自分の頭の中に、自分に不利な思いを入れてはいけないですね。でも、もうそういう人生を生きてしまったのでした。自分でもね、頭のどこかで知っていたようですよ。悲劇のヒロインを演じていたかったんだって。

自称、傷だらけの天狗に笑いのオチがつきました。あははは~。

More
articles

Work, Walk, Law, Low——わたし達の一音

発音の正確さは、通訳・翻訳の「見えない信頼」を支える技術です。AIのパイオニア、Babak Hodjat 氏のもとで働く世界トップクラスのエンジニアたちは、文脈や異なる言語体系(!)で互いを理解しています。わたしたちは通訳。一音の精度を上げ誤解を生まないよう、日々訓練を重ねています。

空のように、私のノートの取り方もかたちを変えていく。それでいいのです。

逐次通訳のためのノートテイキング

逐次通訳では、ノートテイキングが訳出を左右します。 端的に言って手元に文字起こしとか、原稿に近いものがあれば、それを読めば正確に訳出できるのです。一つひとつの言葉、数字、そしてニュアンスを話すスピードに合わせて書き留めるのは、匠の技です。今日は速記と抽象画のあいだのような芸術の話をしようと思います。

優秀な通訳、溝をつないで次のステージへ

優秀な通訳チームはどこにいる?

P社というフィンテック企業で働いていた頃のことを、しばしば思い出します。 数ある通訳の現場の中でも、あの時期が特別だったのは、「優秀なチーム」を全員が作っていたからです。では、どうやって?