「相手が正しい」ってことにしてさっとよければいい。
今日も斎藤一人さんの一日一語 斎藤一人三六六のメッセージにインスピレーションを得ました。
台風19号に被災された方にお見舞い申し上げます。
わたしは子供時代、引っ越しが多かったのですが、いつも多摩川沿いでした。武蔵小杉、小島新田、稲城長沼、矢川、そして立川に引っ越しました。そして自分が就職して親から離れ、多摩川から離れました。
小学校の3年生だったかと思います。同じクラスの男の子に、臭いといじめられ、避けられている子がいました。わたしとは席が近かったのと、彼の目に感じるものがあり、ある時から先生に当てられたときに、ここ読むんだよと教えてあげたり少しずつ話すようになりました。そんなことをしているうちにその子の臭いも気にならなくなりました。
しかし、台風だったか嵐の後、増水した多摩川で発泡スチロールの箱を浮きにして遊んでいたそうで、彼は溺れて亡くなってしまいました。わたしにとっては最初に認識した「人の死」でした。「学校に来なくなってしまいました」ことだけを強く感じました。
仕事であれ、自分の友達であれ安否を確認するとはなかなか怖いことです。悪いニュースを受け取れる器が自分にあるだろうかと考えたりします。
その一方で安否確認の会話を聞いていると、その人の意識している世界と、その人の器がわかります。安否確認するべき立場にある人から、あるまじきセリフを聞かされても、「相手が正しい」ってことにして、さっとよけるしかないです。
斎藤一人さんによると多くの議論はそんなものらしいです。
この台風からわたしを守ってくれた存在を感じたのでした。その存在は、わたしに暗い気持ちにならないようにと言いました。そして、けがもなく、熱も出していないで動けるなら、困っている人に手を差し伸べられるように、準備をしているように言いました。地理的には自分の家のある地域と、クライアントの場所ピンポイントでした。それ以外は祈りであっても、自分がもう十分と思えるまでのことをしてからだと教えてくれました。
本当にしなければならないこと以外について、議論は不要なのだと思いましたよ。