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Throwback Thursday。二十歳で車の免許を取り、金曜の夜から幼馴染と関東近郊の林道を走りに行き、土曜とか日曜に帰ってくるという週末を何年か過ごしていました。その頃は、合コンにも興味がなく、バイト代はガソリン代にして、地図に載らない林道を走り、夜景を見たり、野生動物と遭遇するのが好きだったので、山にばかり行っていたのでした。

その後、観光で訪れたサイパンで体験ダイビングをしてから、ダイビングが大好きになり、海にばかり行く人になりました。

当時、日本でダイビングのライセンスを取るのは高額になったり、当時住んでいた東京立川市からダイビングの海洋講習やツアーで伊豆半島や伊豆七島に行ったりするのはなかなかの手間でした。海外で取る方がお金もかからないし、時間も集中してできるし、バケーションも楽しめるということで、ハワイに通うライフスタイルになりました。

留学したかったのですが、経済力がなければできません。高校の親友が、大学4年間をアメリカで過ごすことになりました。親が許してくれないので、留学できなかったと思っていた自分が「自分は留学はできないのだ」と気付いた時に、ダイビングで外国に行くという代わりの夢に出会いました。

何かにつけてやたらと厳しい親も、わたしが自分で貯めたお金で行くので、わたしを止めることができませんでした。今ではわかるのですが、何かにつけてやたらと厳しくて、一人暮らしなんて結婚前の娘に絶対許さないというような親でしたが、本心ではわたしに自立してもらいたかったのでしょう。

本当はすぐに行き来のできない海外にいてくれるぐらいが気楽だったのだと思います。誰にでもそういうことはあると思いますが、わたしの母もまた、自分が本当に望んでいることが自分でもわからない人だったようです。

さて、到着したオアフは、若いわたしには最高の観光地でした。ハワイの車のナンバープレートには虹がプリントしてありました。ハワイのどこかにシャワーが降っているので、虹がかかっているのが、頻繁にみられます。

ハワイは、その他の世の中のすべてのことと同様に、その観光客向けの顔とは裏の顔がありました。若いわたしの頭には「人間はみな平等」とか「努力は報われる」とかいう理想論があって、その後社会に出ていくにつれ、直面するようになる世の中の現実が、難しくてちょっと理解できなかった頃だったなあと思います。

オアフでは、ダイブマスターになり、インストラクターになり、メインランドから移住してきたダイビングのガイドをしていた白人に恋をして、手痛い失恋もしました。

日本から留学している同じ年代の人達と友達になって、夜ディスコへ行くために、昼過ぎから集まって、服を選んだリメイクをしたり、○○州出身のオトコはダンスがどうだなどと、無責任なことを日本語で話して笑ったりして「ああ、今、自分はアメリカ合衆国のテリトリーにいるのだ」と実感して、夢がかなっていることに感激したりしました。

マカダミアナッツを拾ってきて、ダイブショップの庭で陽に当てて乾燥させて、スキューバのタンクで殻を割って中身を食べたり、たまに中身まで潰してしまって心の底からガッカリしたり、あるインストラクターの庭で出来すぎたアボカドを分けてもらって、それをパルメザンチーズと、玉ねぎのみじん切りとしょうゆと混ぜてご飯の上に載せて食べたりしました。

すべての体験には、それぞれに輝くようなキラキラした喜びがありました。

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